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(1447) これから何が出来るのだろうか、最後・・・

長々と、「これから何が出来るのだろうか」という題材で

ブログを続けてきた。



ぼくの過去の歴史をほどといて、本質を理解して

これからのぼくは何をしなければならないかという命題に

少しでも近づけられたらと思った。



親父の失敗が、ぼくに与えてくれた最大の親父からの

相続だと思っている。



カンボジアの胡椒事業は、まだ1年が経ったばかりだ。



第二次事業計画用の土地購入の為の借り契約が

なんとかやっとのおもいで成立しそうだ。



過去で参考になることは参考にしなければ効率が悪い、

しかし、過去にこだわっているだけでは将来がない。



新しい切り口、新しい発想を持ち続けていかなければならない。



昨日の事は、すでに古い事なのかもしれない、”朝令朝改”

のテンポで進まなければならない。



”0を1にする”事の発想。



胡椒事業以外の新たなる事業の目星がつけたい。



すべては「人事を尽くして天命を待つ」という、古典的な教訓を、

ぼくは大事にしていきたい・・・。



 

| つぶやき | 04:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1446) これから何が出来るのだろうか、十六・・・

親父の会社を辞めて、雀の涙程度の退職金では生活は

出来ない。



そこで、ニットしか芸がなかったぼくは、小さいアパレルの会社を

始めた、製造よりかデザインという付加価値を付けて販売する

事によって利益率が違うからだ。



アパレルの利益率の場合、製造会社は、たし算、アパレル会社は

掛け算といわれた。



すでに日本の経済はバブルから転げ落ち始めていた。



当初は、デザインを起こして、知人のパタンナーに型紙を

おこして貰い、生地の編立、縫製は一貫してやって貰えなくて、

別々の外注工場に製品を運んで商品にしてもらわなくては

ならなかった。



通常は、一貫して編立から縫製までして貰えるのだが、

当初は資金繰りもあって、そうせざるを得なかった。



しかし、不思議と、よく売れた、生命線の在庫管理にも

問題なく処理できた。



差別化する為に、香港に会社をつくって高級素材を使った

ハンドメイクの商品をつくるように心掛けた。



イタリアのボローニュア近郊の工場にも依頼した。



デザイン所を渡し、編立て、縫製は、もちろん委託生産だ。



中国生産の場合、糸はイタリアなどの世界中から自由貿易国の

香港に安く輸入出来た。



これが、また、利益率70%以上の高利益商品を生み出した。



いずれにしろ、ぼくがラッキーだったことは、優秀なニットの

プロの香港人スタッフ、ドナルドと知り合えたことだった。



その後、ファッションの傾向は、カジュアル化が顕著になり、

ドナルドに会社を譲った。



SPA(製造小売り)のビジネスモデルが香港ではすでに

始まっていたが、日本国内においてはユニクロが動き始めていた。



急激な時代の流れ、変化に対応していかないと淘汰される。



体力のあるうちに、次に向かって、今のビジネスを見極め、

将来可能性がない場合は、躊躇なくやめて次を考えなければ

ならない。



 

| つぶやき | 09:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1445) これから何が出来るのだろうか、十五・・・

過去には、人もうらやむような利益を上げた事もあったのだろう。



親父は、その事に引きずられた。



たぶん、いまでも、パナソニック、ソニー、任天堂、シャープがそうで

あるように、国内でしか通用しないビジネスモデルで儲ける事が

出来た企業は、なかなか新しいことへの挑戦は避けられてきた。



なぜなら、新しく始めるという事は、失敗する可能性の方が

大きいという事を、多くの企業家は知っていたからだ。



何もリスクを払わなくても、このままでいいではないかという、

いまでこそ言われ始めたガラパゴス現象が、当時からすでに
                   ↑
始まっていたのかもしれない。



親父には香港の事を話しても分かってくれないという先入観を

持ってはいたが、ダメもとで親父に話してみた。



「いまの規模は間違いなく小さくなるかもしれないけれど、出来るだけ

早く今の製造業から業態を変えないと会社はもたない」と。



散々、話し合った挙句、ぼくは自分の道を行く事にした、親父は

理解してくれなかった。



そのまま残ったほうが楽だったし、残れる選択肢もあった。



しかしまだ40歳前だったからか、自分の力を試してみたいと

これまで長い間思い続けてきた想いを選んだ。



親父から小額の退職金を受け取った。



それから8年経って親父の会社はものの見事に廃業した、

赤字を埋めるために、一億円位の金を使ったらしい。



倒産でなかった事がせめてもの救いだった。




 

| つぶやき | 14:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1444) これから何が出来るのだろうか、十四・・・

帰国後、新規に高性能機を導入したにもかかわらず、親父の

会社は年々厳しさを増していった。



中国からの繊維製品が安く輸入されるようになったからだ。



そしてあるとき、取引先のアパレルの社長から、香港に

行ってみないかという誘いを受けた。



いまの現状の打開を将来に向けてどうすれば良いかという

問題をかかえていた、まさにそのときだった。



世界中の有名ブランドのニット製品を製造していたその会社の

商品を見た時、その悩みは霧散した。



ひと事で言うと、香港には敵わないという事だった。



安さ、品質、そして、我々はその製品の顔と言っていたが、

商品の感性もそうだった。



タイミング的には、それからニット製造のコモディティ化

始まったような気がする。



日本に戻って、早速、ぼくは「善事即行」すなわち、良いと

思われることはすぐに実行しろという事に基づいて、親父に、

出来るだけ早く業態を変えないと、この会社は

将来がないと具申した・・・。




 

| つぶやき | 13:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1443) 受難な?今年のソンクラン・・・

今年で、タイのお正月の三回目のソンクランを向かえた。



路上に陣とって、車やそこを通る人達に水をかけるという

なんとも言えないタイ独特の行事なのだ。



水を掛けられると、これからいい事が起こる縁起の良い

行事なのだという。



いつもは、この時期、カンボジアへ行く事が多かったが、

今年はゆっくり部屋にこもって、キンドルでの読書とWOWOW の

映画三昧だった



しかし、


ちょっと低めの二階にあるぼくの部屋からは、プールで

泳ぐビキニの白人美女が日光浴をしているがよく見えた。



たまたま、部屋でテレビを見ていると、ビキニの美女が日光浴を

する為に横たわっている椅子と、ぼくがテレビをみる方向が一緒なので、

ビキニ美女からはまるで、ぼくがいつも見ているように

勘違いされていたのかも知れない。



また、コンドから晩飯を食べに外出すると、すぐさまいつも笑顔を

爻わせる小さな女の子と目があってしまった。



ヤバイ と思った瞬間、躊躇なくホースからの水を掛けられた。



一旦水をかけられると、ところどころの路上に陣取っていた

若い男女のブループに、行きかう人達はほとんど水を

掛けられていないのに、ぼくだけが集中的な水を掛けられてしまった。



下を向いて歩けば水をかけられないというジンクスは

まったく関係ない嘘だった。



バンコクに来て、ソンクランでこんなに水をかけられたことは

かってはなかった。



ずぶ濡れで、やっとの思いで、いつものレストランに入って、

そこの知り合いの女性スタッフからは「そんなのまだ序の口よ」と

いう目つきで見られてしまった。



果たして、今年は縁起の良い歳なのだろうか?





 

| つぶやき | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1442) あー、モロッコ、そしてカサブランカ・・・






昨夜、プロンポンの駅前の中古本屋の前を通った時に、

軒先に並べられていた「PEN」を買ってしまった。



「いまこそ知りたい アフリカ」というタイトルだ。



PENは時々買ってしまうのだが、じっくり読んだことがない。



パラパラと、ページをめくって写真を見てそれで終わりなのだ。



PENでそう言う読み方をするのが好きだった。



なぜ、アフリカの本を買ったのかというと、テニス仲間の

なかに、アフリカに駐在していた友人からファンタスティックな

アフリカの話を聞かせて貰ったからだ。



しかし、ぼくは、モロッコに行きたいと思い続けてきた。



北アフリカのモロッコにどうして行きたがるのか、それは

「カサブランカ」という映画に影響されたかもしれない。



ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマンのこの映画は

ぼくの生まれる前の映画ではあったが。



イングリッド・バーグマンの、あの知的なまなざしが好きだった。



そして、多くの映画による影響が、ぼくの人生をも変えてきた。





      


 

| | 20:57 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1441) これから何が出来るのだろうか、十三・・・

勿論、その背景とする歴史は、日本とは違っていた。



日本よりも、産業革命はヨーロッパの方が徹底的に

早かった のだろう。



文明、経済の習熟度も違っていたのだろう。



中小企業の親父の会社では、特にぼくの場合は長男だと

いう理由だったかもしれないが、率先して働かなければ

ならなかった。



なにしろ日曜日も関係はなかった、一日12時間以上は

働いたのだろう。



しかし、給料は安かったが、どうせ、ぼくが親父のあとを

継承するのだからという、極めて甘い側面を持っていたから、

まだ我慢できたのかもしれない。



スイスは昼食時間が2時間もあり、ワインを飲みながら

仕事もしていた、それがスイスのライフスタイルのようだった。



ぼくは、何をどうすればこのような人生を楽しみながら、

豊かになれるのだろうかという問題提起を、この研修を

きっかけに長い間持ち続けてきた。



そして、あるときブレイクスルーする時が来た。



スイスの基幹産業は、時計、精密機械などの極めて

高価な付加価値の高いモノを作ることに特化していた。
       ↑


まさに、その付加価値という事をめざしていかなければ

豊かにはなれる事はないと気付いた。



この付加価値という考え方が、これからのぼくの人生を

考える上で、基幹となることになる。





 

| つぶやき | 09:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1440) これから何が出来るのだろうか、十二・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

このスイスでの研修が、将来、ぼくの生き方をエポックメイキングに

変える事になる。 



スイスの田園のなかにある宿泊施設、ドミトリーに世界中から

ニット・テキスタイルなどの勉強に多くのデザイナーが集まっていた。



アメリカ、フランス、ニュージランド、香港、など女性も多かった。



多くの国籍の人達と寝起きを一緒にすることは、24歳のぼくに

とっても多く価値観の違いを知る機会にもなった。



そして、英会話がもっと出来たなら、もっと深く、多彩な人生を

送れるようになったのかもしれない。



ここで学んだのは、もちろんJDRというニッティングマシンの

オペレイション、ニットテキスタイルの勉強が主目的ではあった。



そして、言葉が不自由したにもかかわらず、他の連中よりも

ほぼ、パーフェクトに、それらのテクニックを取得出来たと思う。



しかし、そんな事よりも、ぼくの人生を大きく180度変える

場面に直面せざるをえなかった。



まだ、日本は週休1日であるのに対して、スイスは既に週休

2日制であり、国民が極めて優雅にゆったりと人生を楽しんでいた。



いまでこそ日本も、それに近い経済状態にはなっているが、

当時は、歴然とした大きな差がスイスとはあった。



同じ人間なのに、どうしてこんなにスイスは豊かで、日本は

貧しいのかという疑問を抱かざるを得なかったのだ。




そう言えば、土、日曜日が休日だという事に慣れていなかった

香港人とぼくが、休日に勉強したいからと言って、校長に

資料を貸してくれるようお願いに行った時の光景をいまでも

はっきりと覚えている。



校長は「こんなに素晴らしいスイスにいて、勉強なんかより

人生を楽しみなさい」と言って、エキセントリックに怒られた。



土日曜日、勉強したいと言ったことで、あんなにつばを

飛ばしながら怒られるとは思わなかったのだ。このことは、

 

ぼくの思考回路を変える素晴らしい機会になった、

そして、ぼくの脳裏から、一生忘れる事が出来なくなった。





 

 

 

 

 

| つぶやき | 20:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1439) これから何が出来るのだろうか、十一・・・

スイス到着が、たしかジュネーブ空港だった記憶がある。



空港の入国審査での係員から英語の質問に、係員が

話していることが理解できなかった。



ぼくはこれからの数カ月間の英語での研修に不安を感じた。



しかもニットマシンの研修は専門用語がでてくる英語での

研修だ。



そんな事を思いながら、ジュネーブの国鉄駅に行って、

ニューシャテル駅で降りるべき、チューリッヒ行きの

電車の乗った。



なにしろ、ほとんどの表示板がフランス語かドイツ語

だったような気がして、どの電車に乗ればよいか、

最初は大分迷った。




そして電車に乗ったはいいが、ニューシャテル駅で

降りなければならないから、座席の前のひとに

その駅に着いたならば教えてくれと、かろうじて

英語で話して、何とか分かって貰った。




それから、指定されたホテルに入り、数日後の

研修に備えた。



ニュシャテル湖畔にある、まるで絵葉書に出てくるような

美しい風景を堪能できる余裕はなかった。






 

| つぶやき | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

(1438) Ennio Morricone - Cinema Paradiso・・・






Makikoさん、曲名、受け取りました。



勿論、「Ennio Morricone - Cinema Paradiso」は

ぼくでも大好きな作曲家の一人です。



このブログでも何回か紹介したことがあります。



エンニオ・マリコーネは、荒野の用心棒、死刑台のメロディー

など、多くの映画音楽を残しました。










このピアノ曲が、初心者のぼくには難しいといわれた

「シング・シング・シング」です。



ジャズ曲らしい軽快なタッチの曲。



うまく弾けるように出来たならどこかのバーの人前で

弾きたいというのが小説に出てきたシチュエイションです。












ぼくの映画音楽のなかでもぬきんでて好きな曲。




「ゴッド・ファーザー 愛のテーマ」です。



このうら哀しい、哀愁に満ちた曲は、何回聞いても

飽きません。



最悪の場合、これを教えてもらおうと思っていますが、

Makikoさんと協奏出来そうですか・・・。




 

| 映画 | 17:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - |

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